これ以上はないという状態に至ることを「極める」というのだそうだ。長い人生の中で、何かを極めたことがない私。極めた人、極めようとしている人を見るにつけ、以前はうらやましいというか畏敬の念を持ったものですが、最近はなんか冷めた感がいたします。ご苦労さん、とか言いたくなる。そういうのを開き直りとか偏屈とかいうんでしょうかね。
私かれこれ40年近く調律の仕事をしておりますが、まったく極まっておりません。同業者にはこの「極める」「極まりたい」人が結構いて、例えば一つの音を造るのに命を懸けたりする。ピアノの音って一音が3本弦で鳴っています。それをち密に合わせる作業をユニゾンというんですけど、そのユニゾンに命を懸ける。一音に2時間も3時間もこだわったりする。ピアノの前に座ったまんま休むこともなく耳をそれだけに傾けて、納得いくまで音造り。最終的にはご本人「極めた」といって一人ごちる。それはそれで結構なことなんだけど、はた迷惑でもある。自分のピアノもしくは時間に制約のない調律ならば、それもいいんでしょうけど、大体が自己満でおわる。始末の悪いことにそういった行為をほめたたえる奴がいたりして、本末転倒なオタッキーな状況を生み出したりする。「究極のユニゾン」なんていう本まで出しっちゃったりして。
そう、この究極という表現があらゆるジャンルで勘違いを引き起こしているわけで、料理の世界なんかでも「究極のだし」なんていう表現をよく耳にするのである。とにかく現代人はこの「究極」がすきなんだねえ。なんか息が詰まりそうだよ。
極めることは決して悪いことではないんだが、何もそこまでやらなくったっていいじゃない、ということが結構ある。私のような半端物には「まあまあ」とか「そこそこ」という言葉のほうが好きだなあ。極めてしまうとそこが「終着駅」で、その先がない。そこまで頑張っちゃうと到達したとたんに「無」になってしまうこともある。そして極めた人は結構「早死に」なんだなー。人生、いろいろあって楽しいわけで、そんな一つのことに執着しなくたっていいじゃない!結局、私は何も極まらない人生をこれからも送っていくのだと思います。適当こそ人生の極意じゃ!適当ばんざーーーーい!