「見えている」ということと「見る・見つめる・観察する」ということはまったく別のことで、視野にあるものとは普段、普通に生活している時に「見えている」ということなんですね。視界とは違うんです。視界とは見通しのきく距離という意味なので・・・。台所に立つ割烹着姿の「お母さん」の後ろ姿・茶の間のちゃぶ台の前にでーんと座って新聞を読んでいる「お父さん」のちょっと怖いお顔・縁側で毛つ”くろいする「たま」のかわいいお耳・休まず確実に時を刻む「柱時計」・日に焼けた「畳」のすりきれ・玄関に整然と並ぶ「靴やげた」・庭の草花や植木、道路のあな、隣の犬、掃除しているおばあさん、黄色い木でできた牛乳箱、角に立つ色あせたポスト、空に突き出た風呂屋さんの煙突、ひっそりと控えめな質屋さんの看板、タールを塗られた木の電柱、そこについている傘のとれかかった頼りない電燈、汚れたのれんの粗末な構えのラーメン屋さん・・・・・。それらはいつも「ある」ことが当たり前で(特にあなたや私のためだけに「ある」わけではないんですが)それらが、それらの1つでも突然なくなるとどえらいショックを受けて悄然とする。いかにそれらに日常が支えられていたかを思い知らされる。昔は(いつのことや?)突然なくなるということがあまりなかったように思えますが、最近はあっという間にビルの爆破解体のごとくあっという間もなく在ったことが消滅する。心の準備などしている暇はない。朝おきたらなかった。いく時はあったけど帰りにはなかった・・・特にびっくりなのが、昨日まで「***コンビニ」だったのが今日から「+++コンビニ」ですー!こないだまでなんか建っていたはずなのに、今日は更地になっていたりして・・・なんだったけ、ここにあったお店?犬とたわむれていた野原にそれこそあっという間にけったいな家(失礼!)がぼこぼこ建っていたりと、視野が落ち付きなく変わって、私の心も落ち着きを失う・・・小学校はそのままで在ってほしかった・・・わがままです・・・