旧・音気楽ブログ

ものさし

ものさしとは、物にあてがって長さをはかる道具。別の意味で物をはかる標準・尺度。とあります。はかる道具とは、定規・巻尺のことで、はかる尺度とは抽象的なことに適用される目に見えない定規です。定規は長さがきちんと決まっているわけですが、尺度はそれこそ「その人の感覚・感性」であって、判断の基準が決まっているわけではない。ここが面倒なわけで、一つの出来事に対して、様々な解釈が出てくることになるわけです。

赤信号は止まれ、物を盗んではいけない、人を殺してはいけない、たばこや酒は20才になってから等々、いわゆる常識の範疇で皆が認識・了解していることはとりあえず置いておいて置きましょう。(そうしないとその常識的なことに対する個々の違った解釈が問題になり、話が終わらなくなってしまいますので。)定規で測れるものはいいんです。定規で測れない物・事に対して登場する「尺度」なるものの基準が決まっていない、ということが私の中で問題なのです。

そんなの、皆がそれぞれ違うんだからしょうがないじゃない!あるいは、違っていいんじゃないの!・・・ですよね。あんた、何が言いたいの?ですかね!

エー、つまり何が言いたいのかよく分かんないのですが、長さの基準が規定されてない状況で、あーだのこーだの言っている事って、どう解釈したらいいのかが分からなくなってきた。

だから、それぞれがそれぞれの考え方を持って生きているのが人の生き方でしょ!みんな違ってそれでいいって、誰かもいってたでしょ!それが民主主義なんじゃないの?社会主義とか共産主義は違うけどね・・・

あっ、分かった。何が言いたいたいのかというと、長さがきちんと決まっている、いたはずの定規が狂ってきているということです。自分の都合で変えてはいけないはずの定規の長さを勝手に変えているということです。それじゃー世の中めちゃくちゃになりますわなー!なんせ基準がバラバラになっちまうわけですから。
あの有名なトラ・・さんのように、全て「自分が法律」になってしまうわけです。日本の「あ・首相さん」とか、どこぞの「かも・・理事長さん」とか、偉そうな人たちがこぞって「自分王国」の国王になろうとしている。これって、世界的傾向でもあり、人間という物の正体(私利・私欲を満たすためには何でもする)がむき出しになってきた証拠に他ならない。

俺が俺が・オレガオレガ・おれがおれが・・・でどんどんひどいことになっていくのであれば、この際すべてを「女性」にお任せした方がいいのかも!
「卑弥呼」の時代のように!・・・小池さん頑張れ―!母ちゃん頑張れ―!  なんという情けない結論!